明治41年~42年肥薩線人吉-吉松間を繋いだ馬車について

図1:明治39年 九州鉄道網(九州の鉄道の歩み1972より)

図2:球磨川一勝地の鉄橋(絵葉書)裏面に13.3.9の消印あり

【はじめに】(図1~5参照)

 日本における鉄道は、明治5年(1972年)新橋-横浜間の開通を契機として、全国各地に広がっていった。九州でも盛り上がっていた鉄道敷設の気運をうけて、明治21年1888年)6月27日、福岡・熊本・佐賀・長崎4県合同の九州鉄道会社が設立された。

九州内の最初の鉄道開通は、明治22年(1889年)12月11日に博多-千歳川(久留米北側の仮停車場)間であった。その後、明治24年(1891年)4月に博多-門司(現在の門司港)間、久留米-高瀬(現在の玉名)が開通し、同年7月1日高瀬-熊本間、同年8月鳥栖-佐賀間、明治29年(1896年)11月21日には熊本-八代間、明治31(1898年)11月には鳥栖佐世保・長崎(現在の浦上)間、明治32年(1899年)12月には宇土-三角間、明治44年(1911年)11月には小倉-大分間が相次いで開通した。

明治41年(1908年)6月1日に八代-人吉間、翌年42年(1909年)11月21日に人吉-吉松間が開通して、門司-鹿児島間が全線開通し、九州の南北が1本の線路で結ばれた。八代-人吉間は、球磨川沿いを走る路線であるため「川線」、人吉-吉松間は、山岳地帯を走りループやスイッチバック方式を取り入れた路線であるため「山線」と呼ばれていた。

なお、九州と本州間の旅客輸送は、門司-下関間を関門連絡船が担っていた。

その他、筑豊興業鉄道(明治24年8月30日、筑豊炭田の石炭を若松まで搬出する目的で開業)、豊州鉄道(明治28年、行橋を起点とした豊前8群の交通と田川地区の石炭輸送を目的で開業)、伊万里鉄道(明治31年8月、有田-伊万里間を結ぶ産業振興の目的で開業)、博多湾鉄道(明治37年1月、福岡市周辺の石炭を博多湾内の西戸崎から搬出する目的で開業)も開業したが、博多湾鉄道以外は、後に九州鉄道に合併された。

九州にはじめて官設鉄道が開通したのは明治34年(1901年)6月10日で鹿児島-国分(現在の隼人)間で、明治36年1903年)9月には吉松まで延長された。

明治39年(1907年)に鉄道国有法が成立し、日本鉄道、山陽鉄道など17の民鉄の買収が行われた。九州鉄道も明治40年(1908年)6月30日をもって解散し、7月1日から門司に九州帝国筒同管理局が誕生した。

図3:球磨川渡村の鉄橋(絵葉書:6.11.19の消印あり)

図4:球磨川第一橋梁工事(鎌瀬-瀬戸石間:明治40年

図5:球磨川第弐橋梁を渡る試運転列車(那良口-渡間:明治40年

図6:馬車券(表面)

図7:馬車券(裏面)


【人吉-吉松間の馬車券】(図6,7参照)

 ここで紹介させていただくのは、「人吉吉松間聯(連)絡乗車切符(馬車券)」である。数年前、ネットオークションで入手した史料である。

 切符は、ピンク色の薄い洋紙(縦7.7㎝、横7.1㎝の大きさ)に表面と裏面に文字が印刷してあるものである。表面の一部には、ペン、鉛筆、墨書が見られ、裏面の一部には白洋紙が付着しており、何かに張り付けられていた痕跡が見られる。また、表面右端に点線が印刷されて切り取られた形跡があり、本来ここには熊本-人吉間及び吉松-鹿児島間の切符がついていたものと推定される。※〔 〕内は、筆者が新字体で表記した文字である。

・表面      

熊本ヨリ鹿児島行馬車(ペン書き)

「  人吉吉松間聯〔連〕絡乗車切符

 

   発車驛〔駅〕名  吉 松

降車驛〔駅〕名  人 吉

   発車時間     午前後    時    分

   賃 銭     壱〔一〕圓〔円〕参拾〔三十〕銭

   手荷物重量         貫    百    匁

   手荷物賃銭         圓〔円〕   銭

   年 月 日    明治四十二年 十 月 廿三 日 (鉛筆書)

 

      人吉吉松間

          聯〔連〕絡馬車聯〔連〕合組合   」

一号(墨書)      

・裏面

「  注 意

 一 乗車人員ヲ 四人トス

 二 賃銭ハ 十二才未満ハ半額 四歳未満

ハ無賃トス

 三 御便宜ニ依リ途中降車相成ルトモ

   賃銭ハ拂〔払〕戻サザルモノトス

 四 手荷物ハ貳〔弐=二〕貫迄 無賃トシ

   以上ハ一貫目若〔も〕しくは其未満毎に通

   シテ拾〔十〕銭トス

 五 天候ニヨリ危険ト認ムル場合は發〔発〕

   車セサルヿ〔コト〕アルベシ     」     と記載されている。

 

➀この切符は、熊本-鹿児島間鉄道の肥薩線のうち、人吉-吉松間で使用された馬車券であ

る。馬車が使用された期間は、明治41年(1908年)6月1日から42年(1909年)11月20日までの約1年6か月間の短期間である。この切符には「明治42年10月23日」と鉛筆書きされていることから、人吉-吉松間(11月21日)が開通する約1か月前の馬車券と考えられる。「熊本ヨリ鹿児島行馬車」ペン書きされているが、切符表面には「発車驛名 吉松、降車驛名 人吉」と印字されている。ペン書きが後世の加筆とすれば、吉松 ⇒ 人吉の馬車券であろう。いずれにせよ人吉 ⇒ 吉松の馬車券もあったはずで、「川線」が開通し、「山線」が開通するまでの約1年6か月間は人吉 ⇔ 吉松は馬車が輸送手段であったことは間違いない。「一号」の墨書は、当時の乗車番号であろうか。

②馬車は4人乗り様、運賃は1円30銭である。現在の金額に換算すると約4,431円と

なる。(米1俵:60キログラムの価格が明治42年で5円28銭であることから、現在の米10㎏の価格を3,000円と仮定して計算)12歳以下は半額、4歳未満は無料。途中下車した場合は、払い戻しなし。手荷物は、二貫(7.5㎏)までは無料、それ以上は一貫(3.75㎏)毎に10銭(現在のお金で約340円)の料金が加算される。天候により危険と判断された場合は、発車しないことがある。

図8:人吉ー吉松間 馬車路線推定図(明治30年発行地形図に記入)

【人吉-吉松間の馬車路線と所用時間の推定】(図8参照)

 日本で最初の乗合馬車は、明治2年(1869年)に東京日本橋-横浜吉田橋間(約32㎞か)を2頭立て乗客6人で営業を開始した。片道4時間(時速約8㎞)、運賃は75銭(米1俵:60キログラムの価格が明治2年で3円60銭であることを基に上記の要領で計算すると現在の金額で3,750円)であった。

大正2年(1913年)に製造された儀装馬車は、2頭曳の4人乗り馬車で、全長4.51m、幅1.9m、高さ2.24m、重量1,098㎏の規模である。これらの情報から考えると、少なくとも当時の「達路」(たつろ:道幅1.5間⦅2.7m⦆以上)、離合を換算すると「縣道」(けんどう:道幅4~5間⦅7.2~9m⦆)あるいは「國道」(こくどう:道幅5~7間⦅9~12.6m⦆)を利用する必要があったと考えられる。

 陸地測量部1897(明治30年発行)「八代(第六師管肥後國八代郡」20万分の1地形図及び大日本帝国陸地測量部1904(明治37年発行)「人吉、加久藤、大口」5万分の1地形図を参考に人吉-吉松間の馬車道の路線を推定すると、人吉から加久藤までは「國道」を利用し、加久藤から吉松までは「達路」を利用したと考えられる。地図上での距離は概算で約33㎞である。人吉(標高約105ⅿ)から南へ向かい、大畑(おこば:標高約210ⅿ)を経て、国見峠(標高約700ⅿ)を越え、加久藤(標高約225ⅿ)まで下りる。加久藤から西へ向かい、吉松(標高約250ⅿ)まで至る路線である。大畑から国見峠まで約500ⅿの坂を上り、加久藤まで約500ⅿの坂を下るというかなり険しいコースである。馬車を運転する御者(ぎょしゃ)は、1~2名で2頭立ての馬車であったであろう。前述した東京日本橋-横浜吉田橋間(約32㎞で路線はほぼフラットか)を2頭立て乗客6人を片道4時間(時速約8㎞)で結んだ事例を考慮すると、人吉-吉松間の所用時間は、片道5時間前後(時速約6㎞前後)ではなかったかと推定される。なお、4人乗りの馬車なので、100名の輸送人員があれば、25台の馬車が必要となり、馬車の行列が見られたことであろう。

 どこかに当時の馬車資料が残っているはずである。詳細はその出現を待ちたい。

図9:記念杯(側面)

図10:記念盃(内面)



【開通時の品々】(図9~11参照)

・錫製の盃

 大きさ   口径:6.5~6.6㎝、底径:2.1㎝、高さ:3.0~3.1㎝、厚さ:0.1~0.2㎝

 文字・記号 内面底に「エ」:工部省時代(明治3年:1870年)からの国鉄のマーク

       口縁外側に「鹿児島線八代人吉間鉄道開通・紀(ママ)念・」の文字

       高台内側に▢囲みの中に「正錫」の文字

図11:一勝地驛〔駅〕銘の柱時計

一勝地驛〔駅〕銘の柱時計

 大きさ   高さ:150㎝、幅:41~57㎝、厚さ:13~17㎝

 文字・記号 時計文字盤内「エ」:工部省時代(明治3年:1870年)からの国鉄のマ

       ーク、時計側面に「一勝地驛」とペンキで記載あり。

 情報    時計内部の部品が欠損しているため、稼働しない。開通当時、一勝地駅   

       の待合室にあった柱時計と考えられる。

 

【おわりに】

 鉄道八代-人吉間が開通してから112年後の令和2年(2020年)7月3日~4日、球磨川流域は大規模な水害に見舞われ、尊い人命が奪われる大惨事となった。肥薩線球磨川第一鉄橋及び球磨川第二鉄橋が流失し、線路や駅舎にも大きな被害が出た。

 この影響で八代-吉松間は、現在不通となっている。復旧には多大な費用と期間が必要とされるが、平成28年(2016年)熊本地震から復旧した「南阿蘇鉄道」の様に早期の復活を心から願っている。

 

【参考・引用文献】

陸地測量部1897(明治30年発行)「八代(第六師管肥後國八代郡」20万分の1地形図

大日本帝国陸地測量部1902(明治35年発行)「高瀬」2万分の1地形図

大日本帝国陸地測量部1904(明治37年発行)「人吉、加久藤、大口」5万分の1地形図

米一俵の価格変動史  寿物産株式会社  (制作年代不明の印刷物)

日本国有鉄道九州総局1972「鉄道100年記念 九州の鉄道の歩み」

熊本県大百科事典編集委員会1982「熊本県大百科事典」熊本日日新聞社情報文化センター

日本地図センター2004「地図記号のうつりかわり」

熊本県高等学校地歴・公民科研究会日本史部会編2010「熊本県の歴史散歩」山川出版社

Wikipedia「鉄道を表すマーク」「貫」

コトバンク「馬車」

宮内庁ホームページ「儀装馬車